枕草子 ,把古代日语翻译成现代日语, 春和夏的部分
原文
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる云の细くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飞びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
现代日语
春は曙がいい。次第に白んでいくと、山际の空が少し明るくなって、紫がかった云が细くたなびいているのがいい。
夏は夜。月が出ているときは言うまでもない。闇夜であっても、ほたるが多く飞び交っているのはいい。また、ほんの一、二匹などが、ほのかに少し光って飞んでいくのも趣がある。そんな夜には、雨など降っても风情がある。
请帮我翻译这段日语古文。出自清少纳言的枕草子。
给你解释解释吧
つとめて・・・早朝
降りたるは・・・降っているときは
さらでも・・・そうでなくても
いとつきづきし・・・とても似つかわしい
ぬるくゆるびもていけば・・・ぬるく、だんだんゆるんでいくと
火桶・・・火钵
わろし・・・みっともない
通俗点翻译成日文就是:
冬は早朝が一番すばらしい。雪が降っている时はいうまでもなく趣が深く、霜が真っ白におりているのもすばらしい。また、そうでなくても非常に寒い时に火などを急ぎおこして、炭をもって(廊下などを)通って行くのも非常に似つかわしい。昼になって、寒さがだんだんゆるんでいくと火钵の火も白い灰ばかりになってみっともない。
汉语意思:
冬天的早晨真是美妙极了。下雪的时候更不用说趣味深长。下了白色的霜也很漂亮。还有,在非常寒冷的时候升起火,取炭(通过走廊)也很合适。到了白天,寒冷逐渐缓和,火盆的火仅剩下白色的灰,非常凌乱。
说实话,呵呵 ,给你回答的这些就不止50分,请参考吧。
日本古典文学著作都有哪些?
日本古典文学著作有:《古今和歌集》、《土佐日记》、《蜻蛉日记》、《枕草子》、《源氏物语》等等。
1.《古今和歌集》
《古今和歌集》是1983年6月复旦大学出版社出版发行的图书,作者是纪贯之。该书是日本平安朝初期(十世纪初)由纪贯之、纪友则、凡河内躬恒、壬生忠岑共同编选而成。
日本短歌到平安朝,已基本取代了长歌,成了单独的短歌形式。《古今集》中有作者不详的歌。著名的歌人有纪贯之,他是平安朝初期的和歌圣手。与纪贯之一起参加编选《古今和歌集》的歌人在当时也有代表性。
2.《土佐日记》
由日本纪贯之于承平五年(九三五)成书,属日记文学体裁。
《土佐日记》是日本假名文学的先驱作品,全文仅用真名(汉字)六十二字,大大开拓了日本假名文学的表现空间,并为之后高度繁荣的假名日记文学奠定了基础。《土佐日记》之前的日记作品,大抵都是记录宫中行事等公家性质的汉文日记,缺乏个人的感情色彩,文学性也很低。
而纪贯之借用女性口吻而完成的这部作品,突破了之前的日记作品在内容上和抒情上的局限性,成功地将私人化和内省性的内容导入到作品当中,被认为是通常意义上的日本日记文学--具有自我观照倾向和的高度自由的文艺作品--的鼻祖,历来在学术界都受到高度的重视,是日本古典文学的代表作品之一。
3.《蜻蛉日记》
日本古代女作家道纲母用假名文字写成了不朽的名著《蜻蛉日记》.这部作品巧妙地运用了中国的故事、传说以及白居易等人的诗句,甚至把汉语的修辞方法也运用于其中,从而开辟并拓宽了日本假名文学的创作途径和方法。《蜻蛉日记》之所以印有中国文学的痕迹,不仅和作者幼时所受的教育有关,而且和她痛苦的身世有密切的关联。作者与白居易反对"嘲风雪、弄花草"的写实主义方法产生共鸣,促使了这一划时代作品的诞生。
4.《枕草子》
《枕草子》(まくらのそうし),是日本平安时期女作家清少纳言创作的随笔集,大约成书于1001年。
《枕草子》开日本随笔文学之先河。《枕草子》与同时代的另一部日本文学经典《源氏物语》,被喻为日本平安时代文学的双璧。同时,与后来出现的鸭长明的《方丈记》以及吉田兼好的《徒然草》,并称为日本的三大随笔。
5.《源氏物语》
《源氏物语》是由日本平安时代女作家紫式部创作的一部长篇小说,“物语”是日本的文学体裁。作品的成书年代一般认为是在1001年至1008年间。
《源氏物语》以日本平安王朝全盛时期为背景,描写了主人公源氏的生活经历和爱情故事,全书共五十四回,近百万字。包含四代天皇,历70余年,所涉人物四百多位,其中印象鲜明的也有二三十人。人物以上层贵族为主,也有中下层贵族、宫女、侍女及平民百姓。反映了平安时代的文化生活和社会背景,在贯彻写实的“真实”美学思想的同时,也创造了日本式浪漫的“物哀(もののあわれ)”思想。
参考资料搜狗百科-《源氏物语》
搜狗百科-枕草子
搜狗百科-蜻蛉日记
搜狗百科-土佐日记
搜狗百科-古今和歌集
枕草子和源氏物语的比较
源氏物语相当于我们中国的红楼梦 是本小说
而枕草子相当于随笔 手记的感觉 写一些个人感想
个人拙见
吾笑
若拍 请轻拍
--------一朝风月绕指柔团队
急求《源氏物语》和《枕草子》里关于猫的部分 要日文原版的 万分感谢!!!
《源氏物语·若菜(上)》中出现了全书中第一个描写猫的地方:
几帐などは横へ引きやられて、しまりなく人のいる気配があまりにもよく外へ知れるのである。
支那(しな)产の猫(ねこ)の小さくかわゆいのを、すこし大きな猫があとから追ってきて、にわかに御帘の下から出ようとするとき、猫の势いに恐れて横へ寄り、あとへ退こうとする女房の衣(きぬ)ずれの音がやかましいほど外へ闻えた。この猫はまだあまり人になつかないのであったのか、长い纲に繋(つな)がれていて、その纲が几帐の裾などにもつれるのを、一所悬命に引いて逃げようとするために、御帘の横があらわに斜めにあがったのを、すぐにはなおそうとする人がない。そこの柱のところにいた女房などもただあわてるだけでおじけあがっている。几帐よりすこし奥のところに袿(うちぎ)姿で立っている人があった。阶段のある正面から一つ西になった间(ま)の东の端であったから、あらわにその人の姿は外から见られた。红梅袭(こうばいがさね)なのか、浓い色と淡(あわ)い色をたくさん重ねて着たのがはなやかで、着物の裾は草纸の重なった端のように见えた。桜の色の厚织物の细长らしいものを表着にしていた。裾まであざやかに黒い髪の毛は糸をよってかけたようになびいて、その裾のきれいに切りそろえられてあるのが美しい。身丈(たけ)に七八寸あまった长さである。着物の裾の重なりばかりが量(かさ)高くて、その人はこがらなほっそりとした人らしい。この姿も髪のかかった横颜もひじょうに上品な美人であった。夕明りで见るのであるからこまごまとしたところはわからなくて、あとにはもう闇がつづいているようなのがあきたらず思われた。鞠に梦中でいる若公达が桜の散るのにも顿着(とんじゃく)していぬふうな庭を见ることに身が入って、女房たちはまだ端のあがった御帘に気がつかぬらしい。猫のあまりに鸣く声を闻いて、その人の见かえった颜に余裕のある気もちの见える佳人(かじん)であるのを、卫门督は庭にいて発见したのである。大将は御帘があがって见えるのを片腹痛く思ったが、自身がなおしに寄って行くのも軽率らしく思われることであったから、注意を与えるために咳(せき)払いをすると、立っていた人は静かに奥へはいった。そうはさせながらも大将自身も美しい人の隠れてしまったのはものたらなかったのであるが、そのうち猫の纲はなおされて御帘もおりたのを见て、大将は思わず叹息の声をもらした。ましてその人に见入っていた卫门督の胸は何かでふさがれた気がして、あれはだれであろう、女房姿でない袿であったのによって思うのでなくて、人と混同すべくもない容姿から见当のほぼつく人を、なおだれであろうかたしかに知りたく思った。そしらぬ颜を大将は作っていたが、自分の见た人を卫门督の目にも见ぬはずはないと思って、その贵女をお気の毒に思った。なんともしがたい恋しく苦しい心の慰めに、大将は猫を招き寄せて、抱きあげるとこの猫にはよい薫香(たきもの)が染(し)んでいて、かわゆい声で鸣くのにもなんとなく见た人に似た感じがするというのも多情多感というものであろう。
《源氏物语·若菜(下)》中有关猫的内容是紧接着上面的:
卫门督自身も院のお颜を见ては恐怖に似たものを感じて、はずかしくなり、误った考えにとらわれていることはわが心ながらゆるすべきことでない、すこしのことにも人を不快にさせ、人から非难を受けることはすまいと决心している自分ではないか、ましてこれほど恐れ多いことはないではないかと、心をむちうっている人が、また慰められたくなって、せめてあのときに见た猫でも自分は得たい、人间の心の悩みが告げられる相手ではないが、寂(さび)しい自分はせめてその猫をなつけてそばに置きたいと、こんな気もちになった卫门督は、気违いじみた热をもって、どうかしてその猫を盗み出したいと思うのであるが、それすらも困难なことではあった。
······帝(みかど)のお饲いになる猫の几匹かのきょうだいが、あちらこちらに分れていっている一つが、东宫のお猫にもなっていて、かわいい姿で歩いているのを见ても、卫门督には恋しい方の猫が思い出されて、「六条院の姫宫の御殿におりますのはよい猫でございます。珍しい颜でして、感じがよろしいのでございます。私はちょっと拝见することができました」
こんなことを申しあげた。东宫は猫がひじょうにお好きであらせられるために、くわしくおたずねになった。
「支那(しな)の猫でございまして、こちらの产のものとは変っておりました。みな同じように思えば同じようなものでございますが、性质のやさしい人なれた猫と申すものはよろしいものでございます」
こんなふうに、宫がお心をお动かしになるようにばかり卫门督は申すのであった。
あとで东宫は淑景舎(しげいしゃ)の方の手から所望をおさせになったために、女三(にょさん)の宫(みや)から唐猫(からねこ)が献上された。噂(うわさ)されたとおりに美しい猫であるといって、东宫の御殿の人々はかわいがっているのであったが、卫门督は、东宫はたしかに兴味をおもちになっておとり寄せになりそうであると観察していたことでったから、猫のことを知りたく思って几日かののちに、また参った。まだ子どもであったときから朱雀院(すざくいん)が特别にお爱しになってお手もとでお使いになった卫门督であって、院が山の寺へおはいりになってからは、东宫へもよくうかがって敬意を表していた。琴などご教授をしながら、卫门督は、
「お猫がまたたくさん参りましたね。どれでしょう、私の知人は」
といいながら、その猫を见つけた。ひじょうに爱らしく思われて卫门督は手でなでていた。宫は、
「実际、容貌(ようぼう)のよい猫だね。けれど私にはなつかないよ。人见知りをする猫なのだね。しかし、これまで私の饲っている猫だってたいしてこれには劣っていないよ」
とこの猫のことを仰(おお)せられた。
「猫は人を好ききらいなどあまりせぬものでございますが、しかし、贤い猫にはそんな知恵があるかもしれません」
などと卫门督は申して、また、
「これ以上のが、おそばにいくつもいるのでございましたら、これはしばらく私にお预(あず)からせください」
こんなお愿いをした。心の中では愚かしい行为をするものであるという気もしているのである。
けっきょく、卫门督は望みどおりに女三の宫の猫を得ることができて、夜などもそばへ寝させた。夜が明けると猫を爱抚(あいぶ)するのに时を费(ついや)す卫门督であった。人なつきの悪い猫も卫门督にはよくなれて、どうかすると着物の裾(すそ)へまつわりにきたり、からだをこの人に寄せて眠りにきたりするようになって、卫门督はこの猫を心からかわいがるようになった。もの思いをしながら颜をながめ入っている横で、にょうにょう[#「にょうにょう」に傍点]とかわいい声で鸣くのをなでながら、爱におごる小さき者よと卫门督はほほえまれた。
「恋ひわぶる人の形见と手ならせば
汝(なれ)よ何とて鸣く音なるらん
これも前世の约束なんだろうか」
颜を见ながらこういうと、いよいよ猫は爱らしく鸣くのを懐中に入れて卫门督はもの思いをしていた。女房などは、
「おかしいことですね。にわかに猫をご宠爱(ちょうあい)されるではありませんか。ああしたものには无関心だった方がね」
と不审がってささやくのであった。东宫からおとり戻しの仰せがあっても、卫门督はお返しをしないのである。お预かりのものをとり込んで、自身の友にしていた。
日本名著《枕草子》、《源氏物语》、《竹取物语》、《伊势物语》、《平家物语》 随意一篇的书评,千字以上
《源氏物语》读后感 之 浮舟
“蜉蝣在眼前,
手却抓不住。
以为已抓住,
失踪不知向。”
厚厚的书翻到了末尾,浮舟,那样一个茶靡般的的女子这样悄然的出现了。
她是那个连失势父亲八王爷都不愿接纳的女儿。她没有纯粹高贵的血脉,没有正统悉心的教育,没有擅长的音律雅趣。她是开在乡壤的花朵。
她是那个为当世两个最富声望的男子深爱的女子。她有着毫无瑕疵的容貌,有着富有灵韵的气质,有着毫无矫饰的性情。她是梦浮桥边的浮舟。
那荒凉寥廓的宇治山庄,本是圣僧一般没落亲王修行的地方,却出人意料的充满了纠结的爱恨情仇。春寒秋碧,流水落樱。她也回到了这里,这个曾住着与他血脉相通的亲人的荒凉之地,经历着那些命中注定。
薰大将爱上了她,因为她那同故去的姊姊大女公子酷似的眼角眉梢。即便薰大将看到了她的心地善良、性情温柔,但她在薰心的最深处,恐怕永远都是那个逝去的大女公子的替身,她的细腻靡颜,优雅风情总是薰最为怀念的。或许就是因为这样,她才在初见匂亲王,那个询问她的名字的优雅男子时无法无动于衷。因为在匂亲王的眼中,她不是一个人偶,而是一个叫做浮舟的女子。
匂亲王爱上了她,因为她那美丽的一个背影,明亮如一泓潭水的眼睛。即便匂亲王爱怜她的娇媚秀气,那即使衣着不够高贵也不能掩盖的优雅,但她终究也只是他所爱的女子之一,即便这爱要比别人多一点点,也终究只是之一。或许就是因为这样,聪颖的浮舟是觉察出来了的,所以她最终还是不敢相信匂亲王的海誓山盟。
我以为浮舟是另一个夕颜,两人同样出身低微,同样自然不矫饰,同样洁白柔弱,同样的由命运赐予了世人并称为双璧的两位男子,同样和那个单纯的夕颜一样,经历朝生暮死的青春。
浮舟的确是投水自尽了,但她是绝然的选择了死亡的。有人说,她是因为无法抉择,无论选择哪一方,都会因为另一方而愧疚一辈子。有人说,她是不知如何取舍的浮舟,犹疑不定的飘零浮舟。而我说,不是那样的。浮舟的绝然是因为绝望,是的,是心底的绝望。她确实是得到了两个男子的爱,但那都太遥远了。浮舟在遥远偏僻的宇治期待着,盼着她在京城的爱人的到来。他的柔情蜜意,他的海誓山盟一遍遍在她的脑海回想,也同样一遍遍的折磨着她。她是不愿再等待了,她明白她要的。即便到了京城又如何?也便只能像源氏的那些妻子一样,分得一点点的爱,然后感激那“莫大”的恩惠。她是不愿意的。
是的,她不是另一个夕颜。夕颜是单纯的,她对情人毫无保留的依赖,甚至不要求知道对方的名字。而浮舟不一样。她所要求的,比夕颜更多一点。她要的是对待她本人的,纯净的爱。
她竟然还是苏醒了过来,仿佛是上天仍像眷顾与她一样。六条御息所,绝世的才女,艳雅的范例,她爱了,爱得伤入骨髓,但终于没能获得爱人的深爱。紫上,绝世的美女,完美的女子,她爱了,爱得年复一年,但终没有等到夫君的一心一意。她们都那样哀伤的爱着,直到生命的凋零,甚至是生生世世、不得超生。而浮舟是真的醒来了吧,上天没有带走她的生命,她却自己割舍了所有的眷恋。她已经爱过,爱毕,所以,她抛弃了一切,选择了那条通向圣洁和寂寞的道路。
薰还是找到了她,此时已经出家为尼的她。连我都不禁长叹一声,这到底是怎样的上天注定啊?她在帷屏后,含着泪光看着疼爱的幼弟。颤抖着。这孩子,似乎有些眼熟——那是上一世的事情了罢?她烂漫的少女时代。那些开过的爱情。
她终于还是没有去见薰。她的爱、她的魂,早在她自尽之时就真的死去了吧。现在的她,身着尼装,旧颜不复,只在那梦浮桥上,守护那水晶一般的回忆。而相见,却没有了必要。
浮生若梦,舟楫无声。梦浮桥的彼岸,花开茶靡……