⑶いい文章はそれを読む者に充実した時間をつくり出す。知識が人を喜ばせる必要はない。技巧(注1)が人を楽しませる必要はない。人を利口にし、快く酔わせるよりも、それを読んで本当によかったと思わせる文章を書こう。文章にとって何よりも大事なのは、すぐれた内容としてそのまま相手に伝わることである。したがって、いい文章には「いい内容」と「いい表現」という二つの側面がある。どれほど凝った多彩な表現が繰り広げられ(注②)ても、その奥にある内容がつまらなければ、文章全体として価値が低い。 それでは、いい内容はどのようにして生まれるのだろうか。すぐれた内容を生み出す特定の手段のようなものは考えられな い。小手先(注3)の技術といったものは役に立たない。自己を取り巻いて(注4)果てしなく広がる(注5)世界のどこをどう切 り取るか、それをどこまでよく見、よく考え、よく味わうか、そういうほとんどその人間の生き方とも言えるものがそこに かかわっているからである。豊かな内容は深く生きることをとおして自然に湧き出る(注6)のだろう。一方、どれほどすぐれた思考内容が頭のなかにあったとしても、それが直接人の心を打つことはできない。というよりも、 言語の形をとることによって、それがすぐれた思考であることがはじめて確認できるのである。その意味で、文章表現は半ば発見であり、半ば創造である。いい内容がいい表現の形で実現し、いい文章になる。逆に言えば、すぐれたことばの姿を とおしてしか、すぐれた内容というものの存在を知ることはできないのである。(中村明『日本語の美一書くヒント』による)
(注1)技巧:すぐれた表現技術
(注2)繰り広げる:ここでは、次々に使う
(注3)小手先の:ここでは、その時だけのちょっとした
(注4)自分を取り巻く :ここでは、自分の周りにある
(注5)果てしなく広がる:ここでは、どこまでも広がる
(注6)湧き出る:生まれ出る