世界的に森林や自然の維持、復元に対する関心が高まってきたとき、この気運(注1)を支えた初期の理論は、人間中心主義的な森林・自然維持論、つまり人間の生存や未来にとって森林や自然の維持は不可欠であるという理論であった。いわばそれは、人間のための森林・自然維持論であった。ところが、この考え方は、たちまち暗礁に乗り上げる(注2)。
第一に、人間のための森林・自然維持論であるかぎり、人間のための森林・自然の開発論を否定できなくなる。なぜなら、どちらも「人間のための」という共通の基盤の上にたっている以上、その違いは価値観の違いにすぎず、人間の価値観を統一することなどできないばかりでなぐすべきでもないからである。
第二に、「人間のための」といっても、その内容はさまざまである。農山村に暮らす人びとと都市の市民とでは、その感じ方は同じではないし、たとえば同じ山村に暮らす者でも、林業経営をしている者とそうでない者とでは、考え方が異なってくる。人と森の関係は多様である以上、どうすることが人間のための森林・自然の維持なのかと問われれば、その答えはさまざまである。
第三に、「人間のための」という発想にたつかぎり、「人間のためにならない」自然は破壊してもよいということになりかねない。
こうした問題点があったために、「人間のための論」は、つまり人間中心的な森林・自然維持論は、たちまち破綻してしまった。自然保護思想の流れをみるなら、それに代わって生まれた理論は、自然中心主義的な考え方であった。それは、人間のためになろうとも、ならなかったとしても、自然はそれ自身のうちに生存権をもっており、その生存権は保障されなければならないというものであった。
ところが、この考え方にも問題点があった。なぜならこの理論では、原生林や原生的な自然を維持する理論としては有効でも、たとえば日本のような、長い歴史のなかで自然と人間とが相互に影響を与えながら、それぞれが暮らしてきた地域の森林・自然の問題をよく説明できないからである。
一例をあげれば、かつて農山村の人びとは、自分たちの暮らしを守るために、人家の近くに里山天然林をつぐりだした。それは、徹底的に人間の手を加えた天然林である。(中略)
森林ボランティアとは、自発的に森の中で仕事をする人びとである。そうである以上、私たちは、人間中心主義的な立場にたっことも、自然中心的な立場にたつこともできない。
とすれば、どうすればよいのだろうか。この間いに対して、私たちは、森林・自然と人間の関係を持続的に維持していくことこそが重要だと考える。単純に人間の来来を守ることでも、森を守ることでもない。森林と人間の関係を維持することによって、森と人とが相互的な依存関係をもっている日本の森と人の営みを守っていくことである。
(注1)気運:ここでは、意識の高まり(注2)暗礁に乗り上げる:ここでは、進められなくなる